弥山凌ハーフロックタイム

〜凌の気ままな日常〜

ウイスキーをハーフロックで グラスにウイスキーと水を半々に注ぐ 度数も下がって程よく酔っ払う そんな気分で… いくつになっても夢追い人、演者 弥山凌(ミヤマリョウ)の、取り止めもない、よもやま話を今夜も聞いてもらいましょう。

心が心を奪う。『K・陽子』vol.10

るるぶより


Episode 080


不定期恋愛小説 『K・陽子』vol.10

 

大原三千院

嬉しそうな表情をした渡瀬さんがいた。
バースデー、誰にでもある一年で一番ハッピーなアニバーサリー。最愛の妻と気の置けない仲間たちと一緒に過ごす。僕は、幸せだった。世間一般的な見地からすれば、、

そしていつもの時間がやって来た。僕は、電話を掛けずにいた。もっと適当な言い方をすれば、掛けられずにいた。陽子は多分知っているだろう、この集まりを。だから、来なかった。彼女は、バカじゃない。ぼくを困らせることも考えたかもしれない。でも、そんな事をすれば、返って惨めになるだけだ。それに僕たちの関係は、何も超えてはいない。

深夜二時前に会は終わった。皆が帰って行った。タイミングよく電話が鳴った。
「もしもしお利口さんにしてましたか。ダメですよ、ママのことを忘れては。いつまで待たせるのよ。私には、おめでとうを言わせないつもり。お風呂から出て何時間経っていると思っているの。陽子が風邪を引いたらどうしてくれるの。ママに一の瀬さんのこと言いつけてやる。怖くない。パパにだって、言いつけてやるんだから。そうしたら、困るでしょう。弟だって、体育大出なんだから、その辺のヤンキーより強いんだよ」
うまく言い訳出来なかった。陽子の気持ちだけは分かった。切なくて歯がゆくて悲しくて、それらの感情を消化出来ないもどかしさと時間を過ごす。僕ら2人の間に存在するもの、それを愛と呼ぶのか。少なくともそれに近い性質のもの。僕らふたりは、恋人なのか。秘密の世界を共有するパートナーとでも言うのか。陽子と二人異空間に飛べたら、何も考えなくていい。誰にも邪魔されず二人だけが存在する。僕は、何故彼女と付き合う。僕は、何を求めているのか。答えを出せない。僕が理解してるのは、陽子が僕を必要としている、と言うことだけだ。

大原三千院百万遍
僕と陽子は、最低週に一度は会った。誕生日から何日か過ぎた後、三条京阪で待ち合わせて、バスで大原へ向かった。

大原は、僕が京都で一番好きな場所だった。街中にあるお寺と違って、ゆったりとした時間の流れの中で観賞できる。少し傾斜のある参道を歩きながら、深閑とした世界に身を委ねる。木々の緑も眩く目に飛び込んでくる。空気に淀みがない。深呼吸すると肺が清められるようだ。時折鳥のさえずりが聞こえてくる。姿が見えたかと思うと、一瞬にして飛び立ち視界から消えてしまう。三千院の境内の一角には、観音様が何百と並ぶ。どの顔も僕に微笑み掛けているようだ。僕も微笑みを返す、精神が彼らと融合するように。時空は、一体何を求めているのか。何も生み出せないでいるこの僕に…

三千院は、寂光院と対だ。三千院を下り、最初の道に戻って道路を渡り、寂光院へ向かう。田舎道を歩いて10分程の道のりにある。
三千院寂光院に初めて来たのは、大学一年の時だ。その頃、僕は枚方にある学生寮に住んでいた。先輩二人と寮の賄いを作ってくれている栄養士の女性と四人で、先輩が運転する車に乗って京都に向かった。西も東も分からない田舎者にとって、ワクワクする遠出だった。その時起こった出来事を今でも忘れずにいる。先輩の一人は、足が悪かった。いつもピッコを引いていた。子供の頃、病気をしたようだった。三千院の境内の中で足を滑らせた。彼は、いじけた風に言葉を吐いた。それをもう一人の先輩がたしなめた。ほんの一瞬の出来事だったが、他人の人生の有り様を見た気がした。


寂光院に向かう道のりを、ほのぼのとした農村の風景を眺めながら散歩する。11月の気候では肌寒さを感じるが、陽子と訪れたこの日は、陽気がよかった。
「見える。鳥がいっぱい飛んでる。ほら、よく見て」
「見えた。見えたよ。何て言う鳥なのかなあ。やっぱり田舎だ。街中じゃあ、見れないね。こんなに空が広くない。のどかでいいね。ねえ、寒くない」
「大丈夫、心配してくれてるの」
「風邪なんかひいてもらったら、君のママに叱られる。言いつけるだろう」
「本当にそんなことすると思っているの」
「うん」
「じゃあ、言いつけてやる。バカね」
陽子との会話は、僕自身を解放させた。僕のキザなセリフを彼女は素直に受け止める。元来僕は、俗世間的な会話には馴染まない。男達が集まると始まる下世話な会話に商売上は付き合うが、後味の悪さにいつも自尊心を傷つけられる。あえて言うなら、翻訳された小説の中の会話が好きだ。それからハリウッド映画の中で交わされるウイットに富んだセリフ、相手の感情を揺さぶるキツめのジョーク、気の利いた例え話、それら全てが僕を魅了する。小説の世界も映画の世界も僕の感覚にフィットする。

「お腹すいてない?もうちょっと歩くと蕎麦屋さんがあるんだ。割と美味しいよ」
「お腹空いてるの?一の瀬さんが決めて。でも、美味しくなくては嫌よ」
「たぶん、大丈夫。たぶん。うん。ちょっと不安だな。一年前だよ、食べたのは」
「誰と?」
「うん。ほらほらあのう。友達と4人で…」
「奥さんと一緒だったんでしょう。そうでしょ」
陽子が、意地悪な顔をしてこっちを見る。
「だったら、おかしい?」
「あっ、生意気。嘘つかないの。そうだよね。奥さん以外とだったら、そっちの方が変だもん」
陽子の表情が、寂しげに見えた。心が心を奪う。今すぐ抱きしめたかった。抱きしめてどうする。もっとマシな言い訳をするのか。それで僕は、満足できるのか。ままごと遊びの関係をいつまで続ける気なのか。手を出さない。それを誠実と呼べるのか。心は、陽子の側に、身体は、Sの側にある。僕は、二人とも裏切っている。
結局蕎麦屋には、立ち寄らなかった。北大路までバスで戻って、東大路を南に真っ直ぐ歩いて百万遍に向かう。百万遍を左に曲がって
銀閣寺道に行くまでの道に長崎ちゃんぽんの店がある。いつもいっぱいで、他の客と相席させられる。
陽子は、初めてだった。美味しいと一言言った。おきまりのキスの儀式は、執り行なわれなかった。きっと忘れていたんだろう。


食事をした後、百万遍でバスを待った。陽子は、見送り役だ。会話がいつもより少ない。三千院まで行って疲れたのか、元気がない。陽子をじっと見る。大きな目に涙を溜めていた。いつもの別れだ。特別なものではない。その気になれば、いつでも会える。恋、彼女は、僕に恋してる。
僕は、さよならの言葉が出なかった。バス停に取り残された彼女が、悲しそうで愛おしく思えた。

✳この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。