弥山凌ハーフロックタイム

〜凌の気ままな日常〜

ウイスキーをハーフロックで グラスにウイスキーと水を半々に注ぐ 度数も下がって程よく酔っ払う そんな気分で… いくつになっても夢追い人、演者 弥山凌(ミヤマリョウ)の、取り止めもない、よもやま話を今夜も聞いてもらいましょう。

Challenge in Shanghai vol.1 柿安無間道

イメージ pixabay


Episode 039

復活の日
2008年05月23日

二年前の今日、2006年5月23日大安吉日、上海での二度目の挑戦が始まった。
7月にオープンする大型焼肉店の店長として戻ってきた。
焼肉スペース120席、鉄板焼スペース60席。それまでシンセンで手がけた日本料理に比べると3倍ほどの広さだ。メニューもオープンの二日前に徹夜で二種類作った。鉄板焼のメニューを作るのは大変だった。英語と中国語と日本語でのメニュー、おかしな話だが日本語を探すのに苦労した。日本の鉄板焼の店と中国での鉄板焼のメニューはかなり違った。
焼肉店を2007年4月27日まで勤め、翌日の28日から上海で有名なお洒落な観光地『新天地』の近くに店舗を構える『柿安』に移った。180席の大型焼肉店を後にして、480席の日本料理店に就職した。京都駅に店を出す『柿安』だ。従業員数97名、ボクの飲食の長い歴史の中で最も広い店舗だった、、、

以上、過去の日記から


時の流れからすると、昨日のストーリーが新しいのだが、
日記としては,時の流れに従っている

2004年7月1日から始まった上海での挑戦は、2005年6月30日で終わり、
その後深圳に戻った
深圳では,二つの日本料理店で働き、恋愛話も含め色々とEpisodeが生まれた
が、二つ目の店は、給料面では、中国での自分史史上最も低かったので、深圳から離れようとした僕は,上海の何人かの知人に連絡を取り、働き場所を探していた
運命の神は,そんな僕の身の上を知ってか知らずか
しばらく連絡をとってなかった知人の森田さんから電話が、
上海での新しい仕事のオファーが入り
二度目の挑戦が始まった

その頃の上海は,焼肉ブームで
有名店としては,れんが家、スタミナ苑があった
この2店舗は,同系列で
牛肉をオーストラリアから輸入していた

スタミナ苑は,いつ行っても満席で
お櫃で出て来るご飯は,炊き方のせいか
美味しいと評判だった
テーブルの上に置いてあるコチュジャンをかけて食べると何杯も食べれた

僕が店長を任された焼肉店『琴』は,
水城路の洛城広場にあり、その隣には和平広場が隣接していて、
小籠包で有名な鼎泰丰ディンタイフォン、名古屋のサガミ、静岡出身の男前の店長kskがいる萬蔵(ばんくら)があった

後にkskの働く萬蔵の3号店イタリアンで上海アパッシユとの運命の出会いがある
2010年6月29日の事だ
W杯決勝トーナメント1回戦
日本がパラグアイPK戦で敗れた日だ

7月までは,オープン準備の為に
食器類の仕入れ、ビールなどの飲料会社との打ち合わせ、食材の仕入れ先探し、スタッフの面接、工事の進捗状況をチェックしたりと忙しくはあったが

マグロを扱う双日の営業マンと仲良くなり
峰二食品の小玉社長との麻雀に誘われた
その縁で3年後の2009年、峰二食品で働くことになる

焼肉琴は,
食べ飲み放題 お一人様168元
日本円で2,520円(2006年レート)
比較的値段の安い店だった

席数120席の焼肉スペースは,初日2日目と満席状態で予想以上の出来に上海人の老板は、とても満足な表情だった
✳老板(ラオパン);社長

「柿安 国際美食』は、2006年10月にオープン、席数480席、初めて店に入った僕にとっては,想像を絶する広さだった
上海の広告雑誌Wheneverで何度も宣伝されていたので
働き場所として魅力を感じていた
この店がいつか僕を必要としてくれると
勝手に考えていた

峰二食品の小玉社長は,たまに焼肉店琴に顔を出してくれた
お店がオープンしてからは,麻雀をする暇もなく、誘いをいつも断っていたのだが、そのせいか、仕事に対して真面目な人間だと認識してくれていた

3月の終わりくらいだったと思うが,
柿安で日本人の料理人を募集してると
誰か働く奴はいないかと
小玉社長に尋ねられた

僕自身料理人ではなかったが、
僕の方から一度柿安のトップと面接させてくれませんか
とお願いした

to be continued,..